Fashion Revolution Day
4月24日は「FASHION REVOLUTION DAY」!!
~国際的なキャンペーンに参加 ~バングラデシュ衣料品工場崩壊の悲劇を繰り返さないために~
フェアトレードの専門ブランド「ピープルツリー」と母体NGOの「グローバル・ヴィレッジ」は、
国際的なキャンペーン「FASHION REVOLUTION DAY」に参加します。
このキャンペーンの背景には、2013年4月24日、バングラデシュの首都・ダッカ近郊で1000人以上の犠牲者を出した、衣料品工場の崩落事故があります。この工場では、ヨーロッパの複数の大手ファッションメーカーが生産しており、その安全管理が疑問視されました。
この悲劇を二度と起こさないために、よりサステナブルで、人にも環境にも配慮した、真のファッションの価値を問い直すのが本キャンペーンの目的です。「WHO MADE YOUR CLOTHES?(あなたの服をつくったのは誰?)」をテーマに、アメリカや、インド、ブラジルなど世界各国の団体や企業が登録し、それぞれの国でイベントやアクションを行います。
ラナ・プラザ事故から1年が経過しました。
被害に遭った家族をピープルツリー/グローバル・ヴィレッジ代表のサフィア・ミニーが訪問し、取材しました。
ラジー・ベグム
「私の娘セリーナは、工場の壁にはいったひびをおそれ、貯蓄の全額2万タカを私に預けました。
『万が一私が死んでしまっても、生きていけるように』と。
セリーナは、瓦礫の中から救助された後に亡くなりました。
4日間も瓦礫の中に閉じ込められ、ようやく救出されて救急車で運ばれている最中に、息をひきとったのです」
現在ラジーは、孤児となってしまった8歳の孫、ビズロイの面倒を見ています。
父親もまた、ラナ・プラザ工場の崩壊で亡くなったのです。
DNA鑑定でも、二人の遺体を確認することはできませんでした。
ラジーは、姉や娘たちが、食事代や家賃のためにくれるわずかなお金をやりくりして生活しています。
彼女はビズロイを学費の安い学校へ転校させました。彼は学校にいるときは大丈夫ですが、家にいると時々とても悲しい気持ちになります」
ラジーはどこに正義を求めればよいのか分かりません。――― 政府か、それとも工場主か。
スフィア
「私は、息子の妻がラナ・プラザで亡くなったので、3歳の孫パルべズの面倒を見ています。
息子はひどいショックと深い悲しみで、もはや縫製工場で働くことはできません。
今は道端の売店で働いていますが、稼ぎはわずかです。
私も家政婦として働いていますが、私たちの収入を合わせても、かろうじて生き延びていくのが精一杯です。
息子の妻の死をぬぐい去ることはできません。
でも、補償金があれば、私たちの生活を建て直す助けになることでしょう」
ショーバーンは、6歳の孫クフム・パルべと一緒に座っています。
彼の父親はラナ・プラザのニューウェイブボトムス工場で亡くなりました。
「今は縫製工場で働く16歳の息子が、家族の中で唯一の稼ぎ手です。
一家の生計をまかなう事はとてもできません。
私は一晩、二晩ずつ、あちこちの親戚の所を泊まり歩いて、助けてくれる人はいないか探しています。
私は体に障がいのある娘の面倒もみなければなりません。
生き延びなければいけない、食べるものがいるし、住む家だって必要なのです。
息子の妻は夫の死後、深刻な鬱病に苦しみ、まだ仕事に戻ることができずにいます。
私の息子は3日間、建物の中に生きたまま閉じ込められました。
彼は携帯電話で私に電話をかけてきました。
『お母さん、僕を助けに来られる?』
彼は何回も何回も電話をかけてきました。
私はラナ・プラザへ行き、5日目にようやく彼の遺体を見つけました。
私は救助隊と兵隊たちに向かって叫びました。
『彼の身体をよこして!』
もし彼らが息子を渡さなかったら、私は建物から身を投げ、自殺していたでしょう。
息子を見付けた時には、彼は亡くなっていました。
NGWFは、絶望に沈んでいる私に、カウンセリングや支援を施してくれています」
ラッキー・ベグムは、4歳になる孫と座っています。
彼女には8歳になる双子の娘たちもいます。
彼女の夫シャリフルは、ラナ・プラザの崩壊で亡くなりました。
彼女はダッカ郊外の村で子どもと暮らし、彼女の夫が仕送りをしていました。
夫が亡くなったので、ダッカに越してきて、両親と暮らさざるをえませんでした。
子どもたちがお腹をすかせたまま学校へ行くこともよくあります。
生きていくのに必要なお金すらありません。
3メートル四方の一つの部屋に、家族6人が寝ているのです。
「ラナ・プラザで製品をつくっているファッションブランドや、
工場のオーナーたち、
そして政府は補償金を払うべきだと思います。
また消費者もどこで自分の服がつくられているのかをチェックし、
再び命が失われることのないよう、工場のオーナーたちに
仕事場の安全性と健全性を高めるよう要求するべきです」
「あの朝、私の妻は、壁面にひび割れがあるので今日は仕事に行かない、と話していました。
しかし、月給は受け取りたかったので、工場へは行ったのです。
ひび割れがあることはみな知っていました。
だからラナ・プラザ内の店が開いていなかったのです。
工場の従業員の中には、ぶたれて中に入らされた者もいました。
工場の外では抗議も行われていました。そこは混沌としていました」
「私はルクサナ。24歳です。
私は(ラナ・プラザ)7階にあるニューウェアスタイル工場で、女性用パンツにポケットを付ける仕事をしていました。
同じ階には700~800人が働いていました。
私は仕事を始めて1年半になっていました。
工場の崩壊が起こった日の朝、私たちの多くは工場の中に入るのを拒みました。
壁に大きなひびがあるのを見ていたので、抵抗したのです。
私は集中することが出来なかったので、不安なままトイレに行きました。
マネージャーが来て、仕事に戻るよう言いました。
しぶしぶ働き始めたとき、いきなりすべてが真っ暗になり、屋根がリフトのように落ちてきました。
柱が落ち、私の目の前にいた友だちのタンジーンに当たりました。
地面に倒れて死んでいく人たちの体が私にぶつかってきました。
タンジーンは、彼女の母を見つけて許しを請うよう、私に約束させました。
彼女は亡くなりました。
私は4体の遺体の下にはまり、そこに4日間横になっていました。
辺り一帯、血だらけでした。
外にいる救助隊の声が聞こえました。
助けてと叫びましたが、誰にも聞こえませんでした。
時間も日にちも分からなくなりました。
ようやく若い男性が懐中電灯を持ってきたので、救助されるものだと思いましたが、それから二度と彼を見ることはありませんでした。
足の痛みはひどいものでした。
私は絶望し、痛みから逃れるために自分の頭を石に打ち付けて自殺しようとしました。
ついに男性が兵士を連れて来て、柱を切断し私を外に出すための穴を開けてくれました。
私はふらふらと意識を失いました。
目を覚ますと病院でした。
完全に意識が混濁していて、考えたり話したりすることができませんでした。
私は記憶を失っていました。
ただ人々が話しかけることを繰り返すだけでした。
私はもうミシンを操作できないので、縫製工場で働くことはできません。
眠っている間も、事故の記憶は洪水のように押し寄せてきます。
もし、きちんとした保証額を受け取れれば、自分で売店を経営することができます。
私がこれまでに受け取ったお金は、足を失ったことに対して約13,600円と、
事故の補償として約59,000円です」
昨年バングラデシュで起こった前向きな変化
- 依然として安定した生活を続けるのに必要な金額は賄えていないという批判はあるが、
最低賃金は77%増えて月5,300タカ(約6,800円)まで上がった。 - 150を超えるファッションブランドが、火災時と建物の安全に関するバングラデシュ協定に調印した。
これは、工場の安全と縫製工場の従業員の福祉を向上させることを目指す、
法的拘束力を伴った協定である。
北米の26のブランドは、「バングラデシュの従業員の安全のための同盟」に加盟した。
第一歩として、工場を調査する専門家チームが結成された。 - 2500の工場が調査を受ける必要があるものの、調査が開始されたのはごく最近である。
働く上で安全ではないと認定された工場もある。
国際労働機関(ILO)は、ラナ・プラザ事故の被害者を補償するために、
4,000万ドル(約42億円)が必要だと推測しているが、今までのところ
工場の関係ブランドは1,700万ドル(約11億円)しか支払っていない。
多国籍ファッションブランドに、安い服をつくるために、
買い叩きをすることをやめるように伝えよう!
- FASHION REVOLUTION DAYのウェブサイトはこちら(英語)
- Twitter @Fash_Rev(英語)/ @Fash_RevJAPAN(日本語)